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80年代に大活躍した伝説のF1ドライバー「アイルトン・セナ」

「音速の貴公子」と呼ばれ日本に空前のF1ブームを巻き起こし、甘いマスクで絶大な人気を誇った天才レーシングドライバー「アイルトン・セナ」。

現在でも“史上最速・最高のF1ドライバー”と評されるなど伝説となった「アイルトン・セナ」を思い起こし偲んでみましょう。

 

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生い立ち

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アイルトン・セナ(本名:アイルトン・セナ・ダ・シルバ)は1960年にブラジルの大都市サンパウロに生まれ、農場や自動車修理工場など多角経営を行う裕福な家庭環境で育ちました。

4歳の誕生日プレゼントにレーシングカートを父から与えられると、幼少期のおもちゃとしてカートに熱中し才能を磨いたのです。8歳の時には自動車修理工場にあったスクラップ寸前のジープを乗りこなしていました。

 

F1参戦までの道のり

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13歳でカートレースにデビューし、17歳で南アメリカのカート選手権を制すと18歳でイタリアのカートメーカーと契約を果たしました。

1980年に20歳で幼馴染みリリアンと結婚し、翌年にイギリスに渡り名門「ジム・ラッセル・レーシングスクール」でテクニックを学び、フォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するも、レース活動資金不足や父親との約束もあり引退しブラジルに帰国したのです。

しかし「誰よりも早く走りたい」という純粋な気持ちとレースへの情熱を諦めきれず、母国での生活を主張する妻と離婚。

1982年に再びイギリスの地を踏みフォーミュラ・フォード2000で見事優勝を勝ち取りました。1983年に参戦したF3では開幕9連勝など20戦中12勝でチャンピオンに輝きました。これまで父方の姓「ダ・シルバ」で参戦していましたが、この頃からお馴染みの母方の性「セナ」で参戦するようになりました。

 

F1での活躍

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1984年ついにトールマンからF1デビューを果たします。決して強いとは言えないチームでしたが、モナコGPではトールマンに初の表彰台をもたらす2位に入ります。

1985年に名門ロータスに移籍すると、第2戦のポルトガルGPで初のポールポジションを獲得し初優勝を飾りますが、エンジンの信頼性に問題もあり継続しての安定した結果が残せず、1985年と1986年はランキング4位に終わりました。

1987年に念願のホンダエンジンがロータスに搭載されると同時に、ホンダと深い縁がある中嶋悟がF1デビューしチームメイトになりました。ホンダエンジンを獲得するもアクティブサスペンションが開発途上であったため不具合が多発したこともありランキング3位に留まりました。

1988年にマクラーレンに移籍すると、セナの移籍に伴いホンダエンジンもマクラーレンに供給されることになります。この年からセナの快進撃が始まり、アラン・プロストとのチームメイト同士の激しいバトルも見応えがありました。

1988年は16戦で8勝、ポールポジションを13回獲得したセナの成績は当時の史上最多記録でした。アラン・プロストと併せて16戦15勝をあげ、マクラーレン・ホンダは本当に強かったですね。

セナは1988年・1990年・1991年の3度ワールドチャンピオンを獲得し、人気・実力ともに絶頂期を迎えました。

天才と称されたドライビングに「セナ足」と呼ばれるテクニックがありました。コーナーでアクセルを1秒間に6回ともいう小刻みに煽るテクニックはセナにしかできない技でした。

 

セナとホンダ

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1988年鈴鹿でのレース後、ホンダの創業者である本田宗一郎から食事に招待され「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」「来年も最高のエンジンを作ってやる」と言われ、「日本の父」とセナは感涙しました。

F1以外でもセナは1989年にホンダのスポーツカーNSXの開発テストに参加し、剛性不足を指摘し、剛性を高めるために追加されたバーは「セナバー」という通称で呼ばれました。NSXはセナが手掛けた唯一の市販乗用車です。

これらのエピソードはセナとホンダの絆がいかに強固なものであったかということがうかがえます。

 

サンマリノの悲劇

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1994年にウィリアムズに移籍して3戦目、イタリアのイモラ・サーキットで開催されたサンマリノGP、予選1日目でルーベンス・バリチェロ(セナと親しい同郷の後輩)が大クラッシュ。バリチェロは幸いに命に別状がなかったが、予選2日目にオーストリア出身のローランド・ラッツェンバーガーがコンクリートバリアに衝突し死亡する事故が発生したのです。

決勝レースの5月1日、悲劇が繰り返されてしまいました。前日までの悲劇もありセナへの心理的な影響も大きく、恋人に電話で恐怖心を語っています。

その心理的な影響があったのかは分かりませんが、レース開始直後セーフティーカーが入りレース再開後2周した7周目でした。超高速コーナーのタンブレロに差し掛かったセナのマシンはコースアウトしコンクリートバリアに衝突、セナは34歳という若さで神に召されました。サンマリノGPはF1史上最大の悲劇となったのです。

 

セナの日本での人気

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1993年にはとんねるずのバラエティ番組にゲスト出演して、生ダラCART GPで石橋貴明(アイルトン・タカ)や元巨人投手の定岡正二とカート対決するなど、F1の緊張感とは違った一面を見せて楽しませてくれました。

セナは日本でF1界のアイドルのような人気がありました。実況を務めていた古舘伊知郎の「音速の貴公子」というセナのキャッチフレーズは有名ですね。

その古館伊知郎もセナの大ファンでした。1994年にセナが事故で亡くなると古館伊知郎もF1の実況から離れることになりました。セナの事故は耐え難い思いだったのでしょう。

 

史上最速・最高のドライバー

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アイルトン・セナはイギリスのF1 Racing誌2007年2月号で、史上最速のF1ドライバー1位に選ばれました。また同誌の2008年6月号で史上最高のドライバー1位にも選ばれています。

イギリス誌オートスポーツ(2009年12月)では、「F1で最も偉大なドライバー」としてアイルトン・セナがF1ドライバー経験者217人の投票で選出されました。

アイルトン・セナは伝説の天才ドライバーであり、神として崇拝されている一面があるのでしょう。

 

F1四天王について

1980年代から1990年代初めのF1界を盛り上げ競い合った4名の名ドライバーがいました。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、そしてアイルトン・セナ。

この4人は「F1四天王」や「ビッグ4」「4強」などと呼ばれ、当時のF1を象徴する存在として競い合いました。アイルトン・セナに次いで第2弾をご期待ください。

 

外国人プロレスラーについては、こちらの記事をチェックしてみてくださいね。
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アキラ

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