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昭和のプロ野球を盛り上げた外国人選手(第2弾)

ジョン・シピン、ウォーレン・クロマティ、ランディ・バース、ハル・ブリーデン、ブーマー・ウェルズについては既に記事がありますのでそちらをご覧いただきたいと思いますが、他にも多くの助っ人外国人選手が昭和のプロ野球を盛り上げました。

第2弾という形で、懐かしい顔ぶれを思い起こしてみましょう。

 

昭和のプロ野球、外国人プレーヤーについては、こちらの記事にも書いてあります。
>>>昭和のプロ野球で活躍した外国人プレーヤーたちは今どこへ?

 

カルロス・ポンセ(右投右打/内野手→外野手)

出典:https://image.middle-edge.jp/medium/78614581-641a-4da9-9bb6-10d9a89802fd.jpg?1469242534


1959年生まれプエルトリコ出身、1982年にミルウォーキー・ブルワーズと契約し1985年にメジャーデビュー。親日家でありスカウトに口説かれた際に喜んで承諾し来日、横浜大洋ホエールズで1986~1990年まで活躍しました。

ポンセと言えば口髭がトレードマークで、その容姿が当時大ヒットの『スーパーマリオブラザーズ』のマリオにそっくりで、「マリオ」や「ポンちゃん」といった愛称で親しまれ、とても人気がありました。「ファンの皆さん元気ですか~、ポンちゃんです!」と陽気にインタビューで挨拶する姿が懐かしいですね。

屋鋪要・加藤博一・高木豊のスーパーカートリオの後を任される主砲で、打点王2回、

本塁打王も1回獲得、ベストナインに2回も選出されました。

現役時代はノーヒットで帰った日は妻にピザしか出してもらえず、ヒットが1本増えるごとにおかずが1品ずつ増え、猛打賞の日はご馳走だったというエピソードがあります。

 

ボブ・ホーナー(右投右打/内野手)

出典:https://baseballgate.jp/admin/wp-content/uploads/2018/01/20180112s00001173071000p_view.jpg


1957年生まれアメリカ・アリゾナ州出身で「赤鬼」や「黒船」などと呼ばれ、ヤクルトスワローズで活躍したバリバリのメジャーリーガー。

1978年にMLBドラフト全体1位指名でアトランタ・ブレーブスに入団し、新人王を獲得しました。その後4番打者として活躍し1986年にエクスポズ戦で1試合4本塁打というMLB史上11人目の大記録を達成します。

同年オフにはFA宣言するも、年棒高騰から各球団オーナーがFA選手と契約しないことを示し合わせた為、日本のヤクルトスワローズでプレーすることになりました。

1987年ヤクルトでのデビュー戦から2試合で4本塁打、4試合で6本塁打と衝撃的な「ホーナー旋風」を巻き起こしました。50本のホームランをとの期待から背番号50でしたが、50本を超す勢いでいったい何本打つのとワクワクしました。

故障もあり最終的には31本塁打でしたが、規定打席に達しないで30本以上の本塁打を記録したのはすごいですね。

ホーナーのヤクルトでのプレーは1年間だけでしたが、ヤクルトやサントリーのCMに出演したり、ハドソンのゲームソフト『桃太郎伝説』に登場する「あかおにホーマー」のモデルになったりと、日本でプレー以外にも強烈なインパクトを残しました。

 

ビル・ガリクソン(右投右打/投手)

出典:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0e-f9/ena197119711971/folder/424424/33/8359833/img_0?1333889199


1959年生まれアメリカ・ミネソタ州出身、読売ジャイアンツで1988~1989年に活躍しました。1987年に引退した江川卓の穴を埋めるべく、メジャー通算101勝を挙げていたガリクソンに白羽の矢を立てたのです。

入団3年目の1988年に球団史上最年少で開幕投手を任された桑田真澄と非常に仲が良く、ガリクソンは息子に「クワタ」というミドルネームを付けるほどでした。

ガリクソンがピッチャーゴロをよく素手で取っていたのも印象的で、怪我しないか心配した人も多いでしょう。

また、21歳に発症した1型糖尿病を患いながらインスリンを注射しての力投は、糖尿病でもアスリートとして活躍できると多くの人々に希望や力を与えてくれましたね。

糖尿病患者のために寄付などの活動も行っており、1998年には小児期発症の1型糖尿病患者で社会的貢献をした人を表彰するため、「ガリクソン賞」(日本糖尿病協会)が制定されました。

ジャイアンツでの2年間で21勝し、メジャー復帰後も活躍して1991年には20勝、日米通算183勝を挙げる名投手でした。

 

レロン・リー(右投左打/外野手・指名打者)、レオン・リー(右投右打/内野手)

出典:https://rz.potaru.com/p/n/770/02/ce/1034564.jpg


兄レロン(登録名リー)が1948年生まれ、弟レオン(登録名レオン)が1952年生まれでアメリカ・カリフォルニア州出身。二人は「リー・ブラザース」として長く日本で活躍し人気がありました。

まず兄レロンが1977年にロッテオリオンズに入り本塁打王と打点王を獲得すると、翌年の1978年に弟レオンも同球団に加入し、有藤道世や後に落合博満らと強力打線を担いました。

兄レロンはロッテ一筋11年、1987年退団までの通算で本塁打283本、安打1579本とすばらしい記録を残し、特に通算打率.320(4000打数以上)は現在でも日本歴代1位を誇っています。

弟レオンはロッテで5年、大洋で3年、ヤクルトで2年の10年間日本でプレーし、通算で本塁打268本、安打1436本、打率.308と兄にも劣らぬ成績を残しました。

「リー・ブラザース」は二人揃って日本の野球に適応して長く活躍し、ファンの記憶にも印象深い兄弟なのです。

 

アニマル・レスリー(右投右打/投手)

出典:https://image.middle-edge.jp/medium/7b55ce81-7d42-450d-a5d2-34e7ec7a3f84.jpg?1468553886


マウンドでのアクションパフォーマンスでインパクトを与えたアニマル・レスリーは1958年生まれアメリカ・カリフォルニア州出身です。

1986年に阪急ブレーブスへ入団した抑えの切り札でした。マウンドに上がると身長198cm、体重104kgという体格で動物のような雄叫びをあげ、飛んだり跳ねたりのガッツポーズは、今まで見たことのない全身を使った派手なパフォーマンスでとても面白かったですね。

喜びのあまりキャッチャーをグラブなどでバシバシ叩くスキンシップもしばしばあり、キャッチャーがちょっと気の毒と思った人も多いのでは。「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」の番組でもよく取り上げられていましたね。

あの派手なパフォーマンスは気が小さい一面があり自らを奮い立たせるためと、ファンを喜ばせることがプロであるという信念があったからでしょう。

来日2年で引退するとそのキャラクターと知名度を生かしタレントに転身しました。芸名は「亜仁丸レスリー」で亜仁丸は元同僚の福本豊の考案でした。当時大人気の「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」にレギュラーで出演して番組を盛り上げ、バラエティ以外でもCMや俳優などで活躍しました。

 

外国人選手の活躍がチーム成績の鍵

助っ人外国人選手はチームの主力選手として活躍を期待され来日します。残念ながら期待どおりの成績が残せず帰国してしまう選手も多くいますが、出来るだけ多くの選手が日本の環境に慣れ、実力通りの力を思う存分発揮してほしいものです。

昭和に活躍した外国人選手はまだまだたくさんいます。第3弾をご期待ください。

 

ドカベンについては、こちらの記事に書いてあります。
>>>「ドカベン」は魅力あふれる多彩なキャラの宝庫!あなたが好きだったのは?

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アキラ

昭和を長く生きてきたので、皆さんと一緒に昭和を懐かしめたら嬉しいです。

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