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昭和の大相撲を盛り上げた力士を振り返る!第1弾

国技のひとつである相撲。江戸時代から大相撲の興行が始まり、昭和戦後のテレビ普及と共に全国的に盛り上がり、多くの力士が国民のヒーローとなりました。

大活躍し記録に残る力士、個性豊かで多くの人の記憶に残る力士、お気に入りだった力士を思い起こしてみましょう。今回は第1弾です。

 

昭和の日本人プロレスラーについては、こちらの記事に書いてあります。
>>>昭和のプロレスを覚えていますか?その当時の日本人プロレスラー

 

大鵬 幸喜(本名:納谷 幸喜)

出展:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/5c/ae40427e5e4876ad5836d4fb164780a1.jpg


1960年代子供たちが好きなものの代名詞として「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行るほど、「大鵬」は昭和を代表する大横綱です。端正な顔立ちに色白のイケメンで、特に女性や子供たちにとても人気がありました。

1940年にウクライナ人の父と日本人の母の間に当時日本領有下であった樺太で生まれ、北海道川上郡弟子屈町で育ちました。

1956年に二所ノ関部屋に入門した当初より「ニ所ノ関部屋のプリンス」と期待された大器でした。1959年に十両昇進を機に「大鵬」と改めます。

大鵬の意味は中国の荘子の古典に由来し、「天を覆う雲のような翼を広げ一飛びで九万里の天空へ飛翔するという伝説上の巨鳥」で部屋一の有望力士に付けるべく用意していた四股名でした。

1960年に入幕すると快進撃、翌1961年に第48代横綱にのぼり詰めるという異例のスピード出世でした。初入幕した1960年から5年連続で年間最多勝、6連覇2回を含む32回の優勝、連勝記録45勝、勝率.827など数々の記録を打ち立てました。まさに昭和の大横綱です。

同時に横綱になった第47代横綱の柏戸と共に「柏鵬(はくほう)時代」といわれる黄金期を築いたのです。平成の大横綱「白鵬」の四股名の由来でもあります。

2000年に還暦土俵入りを披露した際、同じく昭和の大横綱と評される「北の湖」を太刀持ちに、「千代の富士(九重)」を露払いに従えての3大横綱の共演は感慨深いものでした。2013年に没後、国民栄誉賞を受賞しています。

 

北の湖 敏満 (本名:小畑 敏満)

出展:https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/sobetsu-kanko.com/wp-content/uploads/2016/11/25115518/8b4e8aa4425cf1b7916453e456c1ecdf.jpg


1953年北海道有珠郡壮瞥町生まれの「北の湖」は、柔道がとても強く野球好きの少年でした。巨漢でありながらスポーツ万能であったため、「北海道南部に怪童あり」と広まり、多くの相撲部屋から誘いがあるも、手編みの靴下を女将からいただいたことで三保ヶ関部屋に入門しました。まだ中学1年生だったのです。

1967年に初土俵後、15歳9ヶ月で幕下に17歳11ヶ月で十両に昇進するなど「北の怪童」と呼ばれスピード出世記録を次々と塗り替えていきました。「天才力士」のイメージがありますが懸命に稽古に励んで精進した下積みがあってこそでした。

安定した強さを身に付け才能が開花したのは入門から7年経った20歳の時で、番付けを一気に駆け上がり1974年にはついに第55代横綱へ昇進、21歳2か月の若さでした。第54代横綱の輪島との取り組みは特に白熱し、毎回楽しみに見ていました。

倒した相手が起き上がる時に手を差し伸べることをせず、ふてぶてしく温か味がない態度と非難されることもありましたが、敗れた相手に失礼という気遣いの気持ちからだったのです。

1985年に引退するまで優勝回数24回、連勝記録32勝、連続勝ち越し50場所、連続二桁勝利37場所と輝ける記録を残しました。昭和の大横綱の一人北の湖は「憎らしいほど強い」と形容され、その全盛期は兎に角強かったのです。

 

千代の富士 貢(本名:秋元 貢)

出展:https://stat.ameba.jp/user_images/20170801/00/ridia/99/30/p/o0560045013995019303.png?caw=800


「千代の富士」はその精悍な顔立ち、身長183cm・体重126kgと力士としては小柄ながら鍛え上げた筋肉質の体型で圧倒する強さから絶大な人気がありました。「ウルフ」や「小さな大横綱」と呼ばれ、スピーディな動きから豪快な上手投げを得意技としていました。

千代の富士は1955年北海道松前郡福島町に生まれ、運動神経抜群の少年でした。「飛行機に乗っけてあげるよ」と口説かれ九重部屋に15歳で入門しました。

1975年に初入幕するも幾度と左肩の脱臼に悩まされます。手術をせず肩を筋肉で固めて脱臼を克服する方法を選択しました。壮絶な筋トレでまるで北斗の拳のような筋肉の鎧をまとった1980年から快進撃が始まるのです。

1981年1月に千代の富士の初優勝が決定した北の湖との優勝決定戦は視聴率がなんと65.3%と驚異的でした。関脇から大関ついに第58代横綱へと一気にブレイクした1981年は「ウルフフィーバー」でアイドル的なスターでした。

同部屋の弟弟子である北勝海と切磋琢磨し、30歳過ぎても全盛期を継続します。1989年7月には史上初めて同部屋横綱優勝決定戦を北勝海と戦い優勝、同年9月には通算勝ち数の新記録を作り、国民栄誉賞を相撲界で初受賞しました。

1991年5月に新鋭18歳の貴花田に最年少金星を与える完敗もあり、体力の限界と引退を表明しました。通算1045勝、優勝31回、連勝記録53勝と輝かしい成績と、記憶にも残る昭和の大横綱の一人です。

 

髙見山 大五郎(本名・帰化後:渡辺 大五郎)

出展:https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783184/rc/2018/04/20/8497b5858079b1f3ce355eb358d593c34b64b908_xlarge.jpg


現在はモンゴル出身など外国出身の力士が多く活躍していますが、外国人力士の草分けは「髙見山」でした。

1944年生まれ米国ハワイ州マウイ島出身で愛称はジェシー。高校でアメリカンフットボールの選手として活躍しました。5年間衣食住を保障すると高砂部屋にスカウトされ1964年2月に羽田空港に降り立った際、「間違ってシベリアに来てしまった」と、南国育ちのジェシーは初体験の日本の冬に震え上がりました。

身長192cm・体重205kgの身体を生かした破壊力抜群のぶちかましで一気に前に出る取り口が得意で、1967年に十両に昇進し外国人初の関取となりました。1972年には外国人初の優勝を成し遂げます。

最高位は関脇でしたが、1984年に引退するまで97場所と長く幕内で活躍し、多くの人々の記憶に残る力士です。

1980年に日本国籍を取得し、引退後は「東関」を襲名して1986年に東関部屋を開きました。テレビ番組で「高見山の新弟子探し」という企画を故郷のハワイで行い、スカウトしたのが後に外国人初横綱となった「曙」でした。

長いモミアゲがトレードマークで、異国の地で環境や文化に慣れ、厳しい稽古に耐え道を切り開いた実直な人柄や陽気な性格にとても親しみが持てました。

人気力士の高見山は多くのテレビCMなどでも活躍しました。特に印象的なのは丸八真綿のCMで「マルハッチ!」「二倍二倍! 二枚二枚!」と高見山の独特なかすれ声でユーモラスにいうフレーズがブームになり、ものまねする子供たちもたくさんいましたね。

 

お気に入りの昭和の名力士は

今回第1弾として、4人の力士をピックアップしましたが、あなたにとって思い出の力士、お気に入りだった力士のことを思い起こすきっかけになったら幸いと思います。次回第2弾を乞うご期待ください。

 

アブドーラ・ザ・ブッチャー
アンドレ・ザ・ジャイアント
スタン・ハンセン
などについては、こちらの記事を読んでみてくださいね。
>>>昭和のプロレスに欠かせない外国人プロレスラーの存在

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アキラ

昭和を長く生きてきたので、皆さんと一緒に昭和を懐かしめたら嬉しいです。

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