1. TOP
  2. 人物
  3. 昭和のプロレスを覚えていますか?その当時の日本人プロレスラー

昭和のプロレスを覚えていますか?その当時の日本人プロレスラー

テレビ放送が1953年に開始され多くの人が街頭テレビでプロレスを応援し、その後テレビの普及と共に1960年代頃からプロレスのテレビ中継がゴールデンタイムで放送され、お茶の間で熱狂したそんな昭和の時代が懐かしいですね。

昭和を熱くした日本人プロレスラーにスポットライトを当ててみましょう。(外国人プロレスラー、女子プロレスラーについては、後日特集をします。)

 

巨人の星については、こちらの記事に書いてあります。
>>>昭和のスポ魂「巨人の星」でプロ野球選手を目指した人も多かった

 

力道山

出典:http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/02/23/rikidouzan_001.jpg


昭和のプロレスを語る上で外せない日本プロレス界の父といえば「力道山」ですね。1924年生まれ、朝鮮出身。大相撲力士として活躍し関脇まで昇進しましたが1950年に廃業、その後プロレスに転向。アメリカで修業し帰国後、1953年に日本プロレスを設立しました。

同年に日本初のテレビ放送が始まり、街頭テレビの前は力道山を応援する人々で大賑わいとなり国民的ブームになりました。外国人レスラーを空手チョップでなぎ倒す姿は戦後の日本を力づけたヒーローでした。

1960年に見出したアントニオ猪木やジャイアント馬場を育て、本当に日本プロレス界の父といえる偉大な存在ですね。1963年の刺殺事件が残念でなりません。

 

ジャイアント馬場

出典:https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggHu_enfLE_zi2KYTwYHqBqQ—x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/que-14139205819


昭和を知る人で「ジャイアント馬場」を知らない人はきっといないでしょう。1938年生まれ、新潟県出身。身長2m8cmは圧巻で「東洋の巨人」と呼ばれたりしました。

実は元プロ野球選手で1955年に巨人に入団しピッチャーとして期待されていましたが、病気やケガが元で大洋に移籍後野球を断念。1960年に第二の人生として力道山に憧れ、日本プロレスの門を叩きます。

その後力道山との師弟コンビを経て成長し、日本プロレス界の絶対的なヒーローとして長い間親しまれる存在となりました。1972年には全日本プロレスを設立します。

たぐいまれな長身や大きな足を生かした技に威力があり、ジャイアント馬場の代名詞「16文キック」、全盛期には「32文ロケット砲」と呼ばれるドロップキックが炸裂。「脳天唐竹割り」「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」「ネックブリーカードロップ」などの得意技がありました。

ジャイアント馬場と言えば16文(約38.4cm)ですが、実際の足のサイズは約34cm(約14文)で、アメリカ規格の靴サイズで「16」(約34cm)を16文と勘違いから定着したのです。34cmでも物凄く大きい足ですね。

「ポー」「アポー」と言って、ジャイアント馬場のものまねも子供の頃よくしていました。クイズ番組「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」に準レギュラーで出演しての珍解答や、グリコジャイアントコーンのCMはジャイアント馬場の誠実で親しみやすいおおらかな人柄がよく出ていてとても好きでした。

 

アントニオ猪木

出典:https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggDML75XmflD9.IeHbc2XA_w—x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/ans-272310210


燃える闘魂「アントニオ猪木」はジャイアント馬場と双璧をなすプロレス界のビッグネームですね。1943年生まれ神奈川県出身、13歳でブラジルに一家で移住します。

1960年にブラジル興行の力道山にスカウトされて日本プロレスに入門(同年にジャイアント馬場も入門)。1967年から1971年にはジャイアント馬場とのタッグチームとしても活躍しました。王・長嶋の「ON砲」に因んで「BI砲」と呼ばれました。夢のようなタッグチームでした。

1972年に新日本プロレスを旗揚げし、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」を信条にストロングスタイルを極めていきます。

「プロレス最強・猪木最強」を証明すべく1976年からは異種格闘技戦も行い、世界の名だたる柔道家や空手家・ボクサーたちと対戦。中でもボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの一戦は世界でも注目されました。

20数試合の異種格闘技戦で唯一の敗戦は1989年のショータ・チョチョシビリ(柔道家)戦でした。しかし再戦しリベンジしています。現在の総合格闘技へ繋がる猪木の功績のひとつでしょう。

「卍固め」「延髄斬り」「原爆固め」などが得意技で、「アーム・ブリーカー」で1974年にタイガー・ジェット・シンの腕をへし折ったのは衝撃的でした。

「いくぞー! 1! 2! 3! ダーッ!」「元気ですかーっ!」「元気があれば何でもできる!」など様々な名台詞も印象的で、世の中に「喝」を与えて多くの人が勇気と力を貰ったことでしょう。

「人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けば分かるさ。ありがとう!」という引退スピーチには涙しました。

今でも猪木のものまねをする人はとても多く、ファンを「猪木信者」と言うこともあります。「闘魂注入(ビンタ)」はアリガタイ儀式のようになっています。

 

ジャンボ鶴田

出典:https://showa-g.org/img/00052_m.jpg


1951年生まれ、山梨県出身。中央大学の時にバスケットボール選手からアマチュアレスリングに転向して、短期間で才能が開花しミュンヘン五輪に出場。

1972年にジャイアント馬場を慕い全日本プロレスに入門しました。師匠ジャイアント馬場との子弟タッグはとてもダイナミックで強く、正当派なところも大好きでいつも応援していました。

「ジャンピング・ニー・バット」「バックドロップ」「スープレックス(4種類)」などが得意技でその破壊力は抜群。最強の日本人レスラーという人もいるほど「完全無欠のエース」でした。

 

初代タイガーマスク(佐山聡)

出典:http://kuro.pinoko.jp/pro/424.jpg


1957年生まれ、山口県出身。1975年に新日本プロレスに入門。メキシコやイギリスで実力をつけ、1981年に覆面レスラー「タイガーマスク」として帰国。ダイナマイト・キッドとの初戦は全国に衝撃を与えました。

四次元殺法とも呼ばれる空中殺法はこれまでのプロレスの常識を変え、まさにスーパーヒーローが誕生したのです。少年たちはタイガーマスクに夢中になり、空前のプロレスブームを巻き起こしました。

「タイガースープレックス」「ローリングソバット」「ムーンサルト・ダブルニードロップ」「フライング・クロスチョップ」など多彩な得意技は、見ていてワクワクするレスラーでした。

 

昭和に活躍したプロレスラー

天龍源一郎、前田日明、ストロング小林、藤波辰巳、長州力、藤原善明、アニマル浜口、大仁田厚、三沢光晴(二代目タイガーマスク)、ラッシャー木村、上田馬之助、小林邦昭、ザ・グレート・カブキなど。

多くの個性的なプロレスラーが昭和を熱く盛り上げました。あの頃の熱い戦いをもう一度見たいですね。

 

ドカベンについては、こちらの記事を読んでみてくださいね!
>>>「ドカベン」は魅力あふれる多彩なキャラの宝庫!あなたが好きだったのは?

\ SNSでシェアしよう! /

showa-loveの注目記事を受け取ろう

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

showa-loveの人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

ライター紹介 ライター一覧

アキラ

昭和を長く生きてきたので、皆さんと一緒に昭和を懐かしめたら嬉しいです。

この人が書いた記事  記事一覧

  • キャプテン翼は漫画とアニメで世界的に有名

  • 昭和の女子プロレスを盛り上げた女子プロレスラーたち

  • 昭和のプロレスを覚えていますか?その当時の日本人プロレスラー

  • ゲゲゲの鬼太郎はなんとアニメ化50周年!今でも人気です